しあわせになる英語 English for Happiness

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「なぜ今、仏教なのか」その5。瞑想で「無我の境地」に近づきたい、あなたへの助言。

 

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「無我の境地」とは、仏教や瞑想に興味がある人なら、ある意味あこがれの境地かも
しれません。不幸の元凶とも言われる「自己への執着心」が全くない境地に到達する
――しかし、その前に、著者ロバート・ライトは、著者自身も含めて「我思うゆえに
我あり」という近代合理主義に染まって生きてきた人びと(欧米人そして私たち日本人)
に役立つ助言を送っています。バイリンガルで、どうぞ。

 

Maybe it’s actually useful to hang on to some conception of self for a while; maybe
hanging on to it could help you get to the point where you no longer believe it exists.
The scholar Peter Harvey has written,

実際の話、今しばらくなんらかの自己の概念にしがみついておくのは役に立つかも
しれない。しがみついていれば、自己が存在しないと信じるようになるところまで到達
する助けになる。学者のピーター・ハーヴィーはつぎのように書いている。

 

“One can, then, perhaps see the Self idea as fulfilling a role akin to a rocket which boosts
a payload into space, against the force of gravity. It provides the force to drive the mind
out of the ‘gravity field’ of attachment to the personality-factors [the aggregates]. Having
done so, it then ‘falls away and is burnt up,’ as itself a baseless concept.”

「そのため、自己は重力に逆らって積み荷を宇宙に押しあげるロケットに似た役割を
はたすものととらえていいだろう。人間存在の要素[五蘊=ごうん]への執着という
重力場』から心を追いだす力をあたえてくれる。その後、自己はそれ自体が根拠の
ない概念として『はなれて燃えつきる』」

 

In any event, Harvey believes, the not-self teaching “is not so much a thing to be thought
about as to be done.” And who knows, maybe that was the Buddha’s view of the matter.
Maybe he wasn’t really trying to articulate a doctrine but rather to draw you down to
a path.

いずれにせよ、ハーヴィーによれば無我の教えは「熟考するものというより実践する
ものだ」。ことによると、あるいはブッダの着眼点はここにあったのかもしれない。
ひょっとすると、ブッダは教義を明確に述べようとしたのではなく、私たちに道を
歩ませようとしていたのではないだろうか。

 

And that path involves showing you how many things there are that you think of as part
of your self but that don’t have to be thought of that way. In this view, the Buddha, in that
first discourse on the not-self, wasn’t delivering a lecture about metaphysics or
the mind-body problem or anything else so purely philosophical; he was just trying to get
the monks to think about their minds in a way that would lead them toward liberation.

そのためには、私たちが自己の一部だと思っているたくさんのものは、そんなふうに
思う必要のないものだと示す必要がある。そう考えたブッダは、無我についての最初の
説法で、形而上学や心身問題などの純粋に哲学的な問題をとりあげることは
しなかった。ただ、修行僧たちに解放へとつながる形で心について考えさせようと
した。

 

In a way we’re back to square one, Ajahn Chah’s opening advice about the not-self
doctrine: Don’t think about it so much――just do it. But I hope you think that thinking
about it has been useful. Later we’ll hear from someone who seems to have not just
thought about it but done it――someone who says that, after abandoning ownership of
larger and larger chunks of what we traditionally think of as the self, he finally let go of all
of it.

ある意味でふりだしにもどったといえる。冒頭でアーチャン・チャーが無我の教義に
ついて忠告したとおり、考えすぎるな――ただ実践しろ、というわけだ。ただみなさん
には、ここまで考えてきたこともむだではなかったと思ってもらいたい。のちほど、
無我について考えてきただけでなく実践も積んできたという人から話を聞きたいと
思う。私たちが昔から自己だと考えているものを、自分のものではないとどんどん
捨て去っていった結果、自己をすべて手放したという人物だ。

 

But for now my advice to beginning meditators is this; Don’t take the idea of not-self too
seriously.
Maybe the contemplative path will eventually lead you to the experience of
full-on not-self, and you’ll come to believe that, in a profound and hard-to-describe
sense, there’s no “I” in there.

しかしこの段階で瞑想初心者に助言するとすれば、無我の概念をあまり真剣に
受けとらないようにということだ。瞑想の道を進んでいけば、いずれは正真正銘の無我
の経験にいたり、そこに「私」は存在しないという深遠で形容しがたい確信に到達する
かもしれない。

 

Until then, just be guided by the less dramatic lessons from the Buddha’s not-self
discourse. Think of yourself as having, in principle, the power to establish a different
relationship with your feelings and thoughts and impulses and perceptions――the power
to disengage from some of them; the power to, in a sense, disown them, to define the
bounds of your self in a way that excludes them. Think of some degree of liberation as
being possible――and don’t worry about the fact this would seem to imply that there’s
a self to be liberated. There are worse things than being a self that gets liberated.

それまでは、あまりドラマチックではないがブッダの無我の説法から得られる教えに
従うのがいいだろう。自分には本来、自分の感覚や思考や衝動や知覚との関係を
変えられる力がそなわっていると考えることだ。自分にはそうした束縛から自由になる
力、どこか自分とは関係のないものとしてそれを除外したうえで自己を定義しなおす力
がある。なんらかの解放は実現可能だ、と。解放されるべき自己があるように聞こえる
ことは気にしなくていい。それはたいしたことではない。

 

いかがでしたか? ちなみに、文中の「五蘊(ごうん)」とは、人間や 人間の経験を構成
するとされる「五つの集合要素」で、この本では後に詳しい説明が登場しますが、
おおまかにいって以下のようになります。

  1. 肉体とそれを構成する目や耳などの感覚器官、形あるもの(色=しき)
  2. 基本的な感覚、感受(受=じゅ)
  3. 姿かたちや音などの対象がなんであるかの知覚(想=そう)
  4. 意志をはじめ、複雑な感情、思考、好み、癖、決断などを含む大きなカテゴリー(行=ぎょう)
  5. 意識、あるいは認識、とくにほかの四つの要素に対する認識(識=しき)

 


Why Buddhism is True: The Science and Philosophy of Meditation and Enlightenment

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なぜ今、仏教なのか――瞑想・マインドフルネス・悟りの科学

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