しあわせになる英語 English for Happiness

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「シュライアマハー:宗教について」。その8。宗教は、「感じる」ものであり、「理解する」ものではない?”Schleiermacher: On Religion” No.8――Should you “feel” religion, not “understand” it?

 

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「アフター・コロナ(コロナ以後)」と言われるほど、今までの価値観の変革を
求められる今。何か知性を超えたものを信じたい気持ちを、多くの人が抱いている
のではないでしょうか?「近代神学の父」と呼ばれるフリードリヒ・シュライアマハー
が、宗教にとっての、「理解」と「感性」について解説――バイリンガルで、どうぞ
(日本語版はドイツ語初版からの翻訳なので、英語版との間に多少の違いがあることを
ご了承下さい)。

Now is the time even entitled “After Corona,” which is asking for the transformation of
our past values. Many people might feel pulled toward a belief in something beyond
intellect. Friedrich Schleiermacher, who is called “Father of Modern Liberal Theology,”
gives us commentaries on “understanding” and “sensibility” for religion――more to
come both in English and in Japanese (I hope you will understand that there are some
differences between the English version and the Japanese one because the Japanese one
is translated from the first German edition).

 

 

 

But the important thing is that they are supposed to understand everything, and with
understanding they are completely robbed of their faculty of sense, for the way in which
understanding is pursued, it is absolutely opposed to sensory receptivity. Sense
perception seeks objects for itself; it approaches them and offers itself to their embraces.

重要なことは、若い人々にとって理解ということなのです。そしてこの理解ということ
によって、彼らは自らの感性を完全に欺いているのです。というのも、彼らにとって、
理解する、という場合には、その理解は完全に感性と対立してしまっているからです。
感性は対象を求め、それに向かって行き、その対象の抱擁に身を委ねるものです。

 

 

Sense strives to grasp the undivided impression of something whole. It wants to perceive
what and how something is for itself and to recognize each in its unique character.

感性は、全体としての印象を把握しようと努力します。また感性は、ものごとそれ自体
が何であるのか、またどのように存在しているのか、ということを観察しようとし、
またあらゆるものの固有の性格を認識しようとするのです。

 

 

Among prudent people of our age their understanding is not concerned with that; the
what and the how are too remote for them, for they suppose understanding exists only
in the whither and the wherefore in which they eternally rotate. This is their goal, the
place an object occupies in the series of appearances. Its beginning and ending is their
everything.

[しかし]彼らのなす理解ということは、このことと何の関係もないのです。そして
それが何であるのか、あるいはどのようなものとして存在しているのか、という
問いからも遠く離れてしまっています。また彼らは理解するということはただ何処から
来て、何処へ行くのかということを考えることに過ぎないと考え、結局は永遠に
堂々巡りをしているようなものなのです。これが彼らの理解ということの目的なの
です。そしてある対象が現象の系列の中で占めている位置、そのはじまりと終わり
とが、彼らの全てなのです。

 

 

They do not even ask whether and how that which they want to understand is
a whole――this would indeed lead them far, and with such a tendency they would not
get away so completely without religion――but they want to dismember and dissect it
apart from this.

また彼らは、彼らが理解しようとしているものの全体の姿、あるいはそれはどのように
してひとつの全体であるのか、ということを問うことはせずに(もしそのように問う
ならば、彼らの理解を大いに前進させることは明らかですし、そのようなことは宗教
なしには成功しないでしょう)、むしろ彼らは対象を分解し、解剖しようとするの
です。

 

 

They even deal with that whose purpose it is to satisfy sense in its highest potency, which
is, as it were, in spite of them, a whole in itself. By that I mean everything that is art in
nature and in the works of man. They destroy it before it can have its effect it is supposed
to be understood singly and this or that thing be learned from torn-off pieces.

それどころか、彼らは感性を充足させるために存在しているもの、つまり彼らに抵抗
しつつ、それ自体でひとつの全体であるもの(すなわちそれは自然の中に、あるいは
人間の技巧によって現れ出る芸術のことなのですが)さえ、彼らは同じように
取り扱い、芸術がまだその働きをはじめないうちに、破壊してしまうのです。そして
それは個別的なものとして理解されるべきであり、ばらばらにされた断片から学ぶべき
だと言うのです。

 

 

You will have to admit that this is actually the practice of prudent people; you will confess
that a rich and powerful abundance of sense is required, if even only a portion of it is to
escape these hostile procedures and that already, for that reason, the number of those
who rise as far as religion can only be small.

みなさんは、これが理解に富んだ人々の赤裸々な姿であることを知っていただきたいと
思うのです。みなさんは、もしこのようなある種の悪意に満ちた事柄の取り扱いから
免責されたいと願うならば、より豊かで、強い感性に満ち溢れる必要があるでしょう
し、そのようなことが実際にはできないことが、宗教にまで到達することが出来る人が
非常に少ないことの原因であることも認めざるを得ないでしょう。

 

 

In our relationship to this world there are certain transitions into the infinite, vistas that
are hewn through, before which each person is led so that his sense might find the way
to the universe and upon whose sight feelings are stimulated that, to be sure, are not
immediately religion, but that are, if I may say so, a schematism of the same.

人間とこの世界との関係の中には、無限なものへと向かう周知の通路、また切り
開かれた展望があります。そこで宇宙への通路を見出す感性が養われるのです。そして
この展望によって、感情が引き起こされるのです。そしてもちろんそれがそのままで
具体的な宗教だというわけではありません。私に言わせれば、それはいわば宗教の総覧
のようなものなのです。

 

 

Therefore, a religious person has surely turned inward with his sense in the process of
intuiting himself, while for now leaving everything external, the intellectual as well as the
physical, to people of understanding as the great goal of their investigations.

ですからまさに宗教的人間というのは、彼の感性によって自己の内部へと向かい、
彼自身の直観に集中し、一切の外的なもの、すなわち知性によるもの、物理的なものは
理性的な人に委ねて、自己の探求という大きな目標に向かって行くようになるのです。

 

 

The extent and truth of intuition depend on the sharpness and breadth of one’s sense,
and the wisest person without sensibility is no nearer to religion that the most foolish
who has a proper view.

直観の範囲と真理性とは、意識の鋭敏さと広さとに依存するものです。どれほど
すぐれた知恵を持っている人であっても、感性を持っていないならば、宗教について
は、愚かであっても、このことについて正当にものを見る目をもった者に劣ることに
なってしまうのです。

 

 

 

 

 

 

近代神学の誕生: シュライアマハー『宗教について』を読む

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