もし、世界にアジアの宗教しかなかったら、世界は停滞し、現在の状態へと発展する
ことはなかった――20世紀初めの、イギリス人作家による、この主張を、アジア人
である現在の私たちは、どう受け止めるべきか?――バイリンカルで、どうぞ。
(日本語訳は、別宮貞徳氏による)
If there had been only Asian religions in the world, the world would stay stagnant and
not be developed into the present state――How should we, current Asians, take this
assertion of an English writer in the early 20 th century?――more to come both in
English and in Japanese(translated by Sadanori Bekku)
It is not prejudice but practical experience which says that Asia is full of demons as well
as gods. But the evil I mean is in the mind. And it is in the mind wherever the mind has
worked for a long time alone. It is what happens when all dreaming and thinking have
come to an end in an emptiness that is at once negation and necessity.
アジアには神さまのみならず悪魔もいっぱいいるというのは、偏見ではなくて体験
なのだが、しかし、その悪は実は精神の中にいるのである。そして精神が長い間
ひとりぼっちで働き続けたところでは、どこでも、悪が精神の中に巣くっている。夢も
考えもすべて、同時に否定であり必然である空虚の中に終わり果てた時、それが
起こる。
It sounds like an anarchy, but it is also a slavery. It is what has been called already the
wheel of Asia; all those recurrent arguments about cause and effect or things beginning,
and ending in the mind, which make it impossible for the soul really to strike out and go
anywhere or do anything.
無秩序であるように聞こえるが、それは隷属でもある。「アジアの車」と前に名付けた
もの、因果の論、言いかえれば、さまざまな事物が繰り返し心の中で始まっては終わる
という例の論議のために、魂が外へとび出してどこかへ行くとか、何かをすることが
不可能になってしまう。
And the point is that it is not necessarily peculiar to Asians; it would have been true in the
end of Europeans if something had not happened.
そして重要なのは、それが必ずしもアジア人特有のものではないということで、
ヨーロッパ人も、最後にはその通りになったかもしれない――もし、あることが
起こらなかったとしたら。
If the Church Militant had not been a thing marching, all men would have been marking
time. If the Church Militant had not endured a discipline, all men would have endured
a slavery.
「戦う教会」が進軍するものでなかったら、人間は全員足踏みを続けていただろう。
「戦う教会」が訓練にたえきれなかったら、人間は全員、奴隷状態をたえなければ
ならなかっただろう。
What that universal yet fighting faith brought into the world was hope. Perhaps the one
thing common to mythology and philosophy was that both were really sad; in the sense
that they had not this hope even if they had touches of faith or charity.
その普遍的な、しかも戦う信仰がこの世にもたらしたものは、希望だった。一つ、神話
にも哲学にも共通なものは、おそらく、いずれもほんとうに悲しげだということで
ある。つまり、いずれもかすかな信仰あるいは慈悲をもっているにせよ、この希望を
持っていなかった。
We may call Buddhism a faith; though to us it seems more like a doubt. We may call the
Lord of Compassion a Lord of Charity, though it seems to us a very pessimist sort of pity.
仏教を、一応信仰と呼んでもいい――われわれにはむしろ疑惑のように見えるのだが。
「あわれみの主」を「慈愛の主」と呼んでもいい――われわれには非常に悲観的な
あわれみのように見えるのだが。
But those who insist most on the antiquity and size of such cults must agree that in all
their ages they have not covered all their areas with that sort of practical and pugnacious
hope.
しかし、こういう宗教の古さとか大きさとかを、声を大にして主張する人も、その
長い年月の間、その広い地域が、あの実践的な、戦闘的な希望でおおわれたことがない
ことには同意しないわけにはいかない。
In Christendom hope never been absent; rather it has been errant, extravagant,
excessively fixed upon fugitive chances. Its perpetual revolution and reconstruction has at
least been an evidence of people being in better spirits. Europe did very truly renew its
youth like the eagles.
キリスト教世界には、希望がなかったためしがない。むしろ、やたらにあっちこっち
に、ありすぎるくらい束の間の機会にもつきまとっていた。それがたえず改新され改築
されていることは、少なくとも人びとがますます元気でいることの証拠だった。
ヨーロッパはまさに鷲のように若返った。
Religion could never be finally separated even from the most hostile of the hopes; simply
because it was the real source of the hopefulness.
宗教は、希望の最大の敵からも、決定的に離れてしまうことが決してなかった。
要するに、宗教こそ希望のほんとうの源だったからである。
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