人間関係での「信じること(belief)」と宗教における「信じること(faith)」の違いとは?
――バイリンガルで、どうぞ。
What are the differences between “belief” in human relationships and “faith”
in religions?――more to come both in English and in Japanese.
Generally, when the word shin is used in the realm of human relationships,
it corresponds to the English word “belief” (shinyō or shinrai in Japanese).
In addition, there is a form of shin that corresponds to the notion of “faith” (shinkō
in Japanese) in religions generally. In this sense, shin means that one places
one’s faith in an absolute God. I believe that there are differences between
the secular notion of belief and this religious concept of faith.
一般に私たちが、人間と人間とのかかわり、人間関係の中において信じるという場合、
これは日本語では、信用、信頼といいますが、それは英語では、ビリーフ(belief) という
ことでしょうか。こういう世俗的な人間関係における信じ方と、もうひとつは、
宗教一般において、絶対的なる神を信じる場合の、信仰といわれる信じ方があります。
これを英語では、フェイス (faith) といいます。この世俗的な場合の信、ビリーフと、
宗教的な信、フェイスには違いがあると思います。
(snip) In many religious forms of shin, by contrast, people place their faith in
an absolute being or in the transcendent. Here, the object of their faith is something
that is eternal and transcends this world. This kind of faith takes as its object
something that is eternal and ultimate, where we call it “God,” “Buddha,”
or something else.
(中略)それに対して、宗教において、絶対者、超越なるものを信じるというような
場合、そこでいう信とは、その対象が、この世を超えたもの、永遠なるもので
あります。それを神というか、仏というかは別にして、ともかく究極的なもの、
永遠なるものに対する、対象的な信であります。
Moreover, this kind of faith is independent of rational or “objective” proof.
Does God exist or not? Do heaven and hell exist or not? There is nothing that can
confirm or deny any of these matters in an objective way. There is no way
to prove or disprove them with logic or observation alone. At the same time,
it is impossible to prove that they do not exist. Such matters transcend human
judgment and cognition. When, in spite of that, people still acknowledge
the existence or reality of such things, they are exercising this kind of religious faith.
そしてそこで語られる信については、まったく合理的、客観的な証拠は何ひとつとして
ありません。神が存在するか、しないか。天国があるか、ないか。地獄があるか、
ないか。それを客観的に証明するものは何もありません。その証拠はない。逆に
いうならば、それは私たち人間の知性を超えているから、ないということも証明
できない。またあるということも証明できない。私たち人間の判断、認識を
超えている。にもかかわらず、その存在を、その真実性を承認するという場合、それを
宗教的な信、信仰、フェイスというわけです。
“We must surrender our intellect in order to have faith.” “Because it makes no sense,
we have to put our faith in it.” “Faith is a gamble.” Such expressions point to
the structure in which this kind of generic, religious faith arises: by eliminating
all intellectual functioning, people offer unquestioning endorsement to
the object of their faith and gamble upon something for which there can be
no certainty.
「信仰にところをえさせるためには、知識を放棄しなければならない」といい、また
「不合理なるゆえにわれ信ず」といい、あるいはまた、「信仰とは賭けである」とも
いわれる理由であります。そういう知的な営みのすべてを排除して、それをいちずに
是認する、またその不確実なものに賭ける、こういう構造で成りたつものが、一般的に
宗教的な意味での信、フェイスでありましょう。
My second anthology is published now.
Please order it from Amazon if you are interested in.
私の2番目の詩集が、現在、出版されています。
興味のある方は、アマゾンでご購入をお願いいたします。
■プライバシー・ポリシー
当ブログは、Amazon.co.jpを宣伝しリンクすることによってサイトが紹介料を獲得
できる手段を提供することを目的に設定されたアフィリエイト宣伝プログラムである、
Amazonアソシエイト・プログラムの参加者です。このプログラムにおいて、
第三者がコンテンツおよび宣伝を提供し、ユーザーからの情報を収集し、訪問者の
ブラウザーにクッキーを設定することがあります。プログラムにおいて情報の
扱いについてはAmazon.co.jpプライバシー規約をご確認ください。