しあわせになる英語 English for Happiness

共に学ぶ「お役立ち」プログをめざします。

「チェスタトン:正統とは何か」。その5。仏教とキリスト教ほど、明らかに矛盾する宗教は他にない? “Chesterton: Orthodoxy” No.5――Are there no two institutions which contradict each other so flatly as Buddhism and Christianity?

 

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深い考察の末、キリスト教徒となることを選んだチェスタトンによる、仏教と
キリスト教の「ラディカルな」比較。これら二つの世界宗教に興味がある人は、
必読です――解説を、バイリンカルで、どうぞ。

Here we have a “radical” comparison between Buddhism and Christianity according to
G・K・Chesterton who chose to become a Christian after deep contemplation.
A must-read if you are interested in these two world religions――more to come both in
English and in Japanese.

 

 

 

That Buddhism approves of mercy or of self-restraint is not to say that it is specially like
Christianity; it is only to say that it is not utterly unlike all human existence.

たとえば仏教が慈悲を重んじ、自己抑制を重んじているからと言って、別にそれで
キリスト教と格別似ているなどということには少しもならぬ。単に人間共通の経験に
まったく反してはいないというにすぎない。

 

 

Buddhists disapprove in theory of cruelty or excess because all sane human beings
disapprove in theory of cruelty or excess. But to say that Buddhism and Christianity give
the same philosophy of these things is simply false.

仏教徒が主義として残忍や過激を嫌うというのも、正気の人間なら誰しも主義として
残忍や過激を嫌うからにほかならぬ。けれども、だからといって、仏教もキリスト教
も、こういう点について同じ哲理を説いているというのは大まちがいだ。

 

 

All humanity does agree that we are in a net of sin. Most of humanity agrees that there is
some way out. But as to what is the way out, I do not think that there are two institutions
in the universe which contradict each other so flatly as Buddhism and Christianity.

なるほど人類はみな、われわれが罪の網の目に捕らえられていると認める点では共通で
あるし、また人類はほとんどみな、この網の目から脱出する道がどこかにあると認める
点でも共通である。しかしその脱出の道がいかなるものであるかという点になると、
この世に仏教とキリスト教ほど明らさまに矛盾する宗教はまたとないと私は思う。

 

 

No two ideals could be more opposite than a Christian saint in a Gothic cathedral and
a Buddhist saint in a Chinese temple. The opposition exists at every point; but perhaps
the shortest statement of it is that the Buddhist saint always has his eyes shut, while the
Christian saint always has them very wide open.

二つの理念がどれほど対照的であると言って、ゴチックのカテドラルのキリスト教
聖人と、中国の寺院の仏教の聖者の像ほどかけ距ったものはありえまい。実にあらゆる
点で対蹠的なのだ。だがその相違を最も端的に要約するとすれば、仏教の聖者が
いつでも目を半眼に閉じているのにたいして、キリスト教の聖人がいつでも目をかっと
見開いているという点を挙げねばなるまい。

 

 

The Buddhist saint has a sleek and harmonious body, but his eyes are heavy and sealed
with sleep. The mediaeval saint’s body is wasted to its crazy bones, but his eyes are
frightfully alive. There cannot be any real community of spirit between forces that
produced symbols so different as that.

仏教の聖者はなだらかに調和のとれた体つきをしているが、しかし目は眠りに
閉ざされて重たげである。中世の聖人の体は骨も露わなほどに異様に痩せこけている
が、目だけは驚くばかり生気にあふれている。これほど対照的な表象を創り出した
二つの精神の間に、何らかの共通性が本当に存在しているとはとてものことに
信じられない。

 

 

Granted that both images are extravagances, are perversions of the pure creed, it must
be a real divergence which could produce such opposite extravagances. The Buddhist is
looking with a peculiar intentness inwards. The Christian is staring with a frantic
intentness outwards. If we follow that clue steadily we shall find some interesting things.

どちらもなるほど誇張はあろう。純粋な信仰が生み出した超現実のイメージでは
あろう。しかしそれにしても、これほど両極端に反対の誇張を創造しうるものには、
たしかに真の隔絶があるにちがいない。仏教徒は異常な集中力で内部を見つめている。
キリスト教徒は強烈な集中力で外部をにらみつけている。この手がかりをしっかりと
たどって行けば、たしかに何か興味ある発見が得られるはずである。

 

 

By insisting specially on the immanence of God we get introspection, self-isolation,
quietism, social indifference――Tibet. By insisting specially in the transcendence of God
we got wonder, curiosity, moral and political adventure, righteous
indignation――Christendom. Insisting that God is inside man, man is always inside
himself. By insisting that God transcends man, man has transcended himself.

ことさら神の内在論に固執するなら、われわれが手に入れるものは内省であり、孤立で
あり、寂静主義であり、社会的無関心であり、要するにチベット的世界であるだろう。
だが特に神の超越性を力説するならば、われわれが得るのは驚異であり、好奇心で
あり、道徳的、政治的冒険であり、正しき義憤であり、要するにキリスト教世界で
ある。神が人間のうちにあると主張するかぎり、人間はいつまでも人間のうちにある。
だが神は人間を超えると主張することによって、はじめて人間は人間を超えることが
できたのである。

 

 

Orthodoxy by G. K. Chesterton

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「チェスタトン:正統とは何か」。その4。世界を席巻した、キリスト教の「激しさ」は、どこから来るのか? “Chesterton: Orthodoxy” No.4――Where dose the “intensity” of Christianity, which has prevailed on earth, come from?

 

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なぜキリスト教は、今まで人々をエネルギッシュに活動させ、世界最大の宗教と
なりえたのか?その秘密は、キリスト教独自だと言う「逆説」にある――解説を、
バイリンカルで、どうぞ。

Why has Christianity been able to make people energetically act so far and become the
largest religion in the world? The secret lies in the “paradox,” which is said to be peculiar
to Christianity――more to come both in English and in Japanese.

 

 

 

We want not an amalgam or compromise, but both things at the top of their energy; love
and wrath both burning. Here I shall only trace it in relation to ethics.

つまり、われわれが求めるのは、愛と怒りの中和や妥協ではなく、二つながらその力の
最強度において、二つながら燃えさかる愛と怒りとを得たいということである。
ここではただ、倫理の問題だけに即してこの観念をたどるにとどめる。

 

 

But I need not remind the reader that the idea of this combination is indeed central in
orthodox theology.

けれども、今さら読者の注意をうながすまでもあるまいが、この二つのものを
二つながらその最強度において結びつけるという観念は、実は正統神学においてまさに
中心的な命題にほかならぬ。

 

 

For orthodox theology has specially insisted that Christ was not a being apart from God
and man, like an elf, nor yet a being half human and half not, like a centaur, but both
things at once and both things thoroughly, very man and very God.

なぜといって、正統神学が特に力を込めて強調してやまぬところは、キリストが
神からも人からも離れた、いわば妖精のごとき存在ではなく、あるいは半人半馬の
ケンタウロスのごとく、半分人間でありながら半分神であるというのでもなく、
キリストは同時に二つのものであり、また完全に二つのものである存在、まさに人間中
の人間であり、同時にまたまさに神である存在だと考えるからである。

 

 

Paganism declared that virtue was in a balance, Christianity declared it was in a conflict:
the collision of two passions apparently opposite. Of course they were not really
inconsistent; but they were such that it was hard to hold simultaneously.

異教の哲学は、美徳は平衡にあると主張した。キリスト教は、美徳は対立葛藤にあると
主張した。一見相反するように見える二つの熱情の衝突にあると主張した。もちろん、
二つの熱情は本当に対立しているのではない。ただ、同時に二つながら抱くことの
困難な熱情なのである。

 

 

Let us follow for a moment the clue of the martyr and the suicide; and take the case of
courage. No quality has ever so much addled the brain and tangled the definition of
merely rational sages.

今のところ、まず殉教と自殺から引きついで勇気という問題を考えてみることに
しよう。いかなる性質といえども、この勇気という性質ほど、単に理性だけを頼りに
する賢者の頭を混乱させ、定義を紛糾させてきたものはほかにない。

 

 

Courage is almost a contradiction in terms. It means a strong desire to live taking the
form of a readiness to die. “He that will lose his life, the same shall save it,” is not a piece
of mysticism for saints and heroes. It is a piece of everyday advice for sailors or
mountaineers. It might be printed in an Alpine guide or a drill book. This paradox is the
whole principle of courage; even of quite earthly or quite brutal courage.

そもそも勇気なるものは、ほとんど一種の言語矛盾なのである。生きようとする強い
意志を意味するものでありながら、現実にはいつでも死のうとする決意の形を取るから
だ。「自分の命を失おうとする者は命を全うするだろう」というマタイ伝の言葉は、
聖者や英雄のためだけの神秘な言葉ではない。水夫や登山者のためにごく日常的な忠告
にほかならぬ。アルプスの登山ガイドや教練の指導書に印刷してしかるべき言葉
なのだ。この逆説こそ勇気というものの本質を言いつくしている。まったく地上的な、
あるいはまったく野蛮な勇気さえ例外ではない。

 

 

It is true that the historic Church has at once emphasised celibacy and emphasised the
family; has at once (if one may put it so) been fiercely for having children and fiercely for
not having children. It has kept them side by side like two strong colours, red and white,
like the red and white upon the shield of St. George.

歴史上、教会が独身生活の意義と家庭生活の意義を同時に二つながら強調したことは、
世俗主義者の言うとおりたしかに事実にちがいない。(こんな言い方が許されるなら)
子供を持つことを猛然と支持すると同時に、子供を持たぬことをも猛然と支持したので
ある。しかもこの二つを、二つの強烈な色彩を並べて二つながら強調したのだ。
たとえば、聖ジョージの楯に描かれた、あの強烈な赤と強烈な白のように。

 

 

It has always had a healthy hatred of pink. It hates that combination of two colours which
is the feeble expedient of the philosophers. It hates that evolution of black into white
which is tantamount to a dirty gray.

ただ、二つを混ぜてピンクにすることだけは決して我慢しなかった。まさしく健康の
証しである。二つを合わせて一つの曖昧な色にするのは、哲学者の生気のない便法に
しかすぎぬ。キリスト教はこれを憎む。黒が白に進化して、結局きたならしい灰色に
濁ってしまうことをキリスト教は憎むのだ。

 

 

People have fallen into a foolish habit of speaking of orthodoxy as something heavy,
humdrum, and safe. There never was anything so perilous or so exciting as orthodoxy. It
was sanity: and to be sane is more dramatic than to be mad. It was the equilibrium of
a man behind madly rushing horses, seeming to stoop this way and to sway that, yet in
every attitude having the grace of statuary and the accuracy of arithmetic.

正統は何かしら鈍重で、単調で、安全なものだという俗信がある。こういう愚かな言説
に陥ってきた人は少なくない。だが実は、正統ほど危険に満ち、興奮に満ちたものは
ほかにかつてあったためしがない。正統とは正気であった。そして正気であることは、
狂気であることよりもはるかにドラマチックなものである。正統は、いわば荒れ狂って
疾走する馬を御す人の平衡だったのだ。ある時はこちらに、ある時はあちらに、大きく
身をこごめ、大きく身を揺らせているがごとくに見えながら、実はその姿勢は
ことごとく、彫像にも似た優美さと、数学にも似た正確さを失わない。

 

 

Orthodoxy by G. K. Chesterton

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「チェスタトン:正統とは何か」。その3。キリスト教徒が「神の存在」を確信する理由とは何か? “Chesterton: Orthodoxy” No.3――What are the reasons why a Christian has conviction in the “presence of God”?

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キリスト教徒は、なぜ神の存在に確信が持てるのか? 100年以上も前に書かれたにも
かかわらず、今でも世界中のキリスト教徒の愛読書となっている、チェスタトンの不朽
の名作からの解説――バイリンカルで、どうぞ。

Why can a Christian have conviction in the presence of God? Here we have the
commentaries from the Chesterton’s timeless masterpiece, which was written over 100
years ago, yet still is favorably read by Christians all over the world――more to come
both in English and in Japanese.

 

 

 

I felt in my bones; first, that this world does not explain itself. It may be a miracle with
a supernatural explanation; it may be a conjuring trick, with a natural explanation.

私が心の底の底で感じていたことは、まず第一に、この世界はそれ自体では説明が
つかないということである。それは一つの奇蹟としてなら超自然的な説明ができるかも
しれない。これは一つの魔法としてなら自然的な説明ができるかもしれない。

 

 

But the explanation of the conjuring trick, if it is to satisfy me, will have to be better than
the natural explanations I have heard. The thing is magic, true or false.

しかし、もし魔法として説明できるとすれば、その説明が私を満足させてくれる
ためには、私がさんざんに聞かされた自然科学的説明よりも筋が通っていなければ
ならないだろう。いずれにしてもこの世界は、真実の魔法か、いつわりの魔法
であるか、ともかく魔法の仕業であるにちがいない。

 

 

Second. I came to feel as if magic must have a meaning, and meaning must have some
one to mean it. There was something personal in the world, as in a work of art; whatever
it meant it meant violently.

第二に、この魔法には何らかの意味、何らかの意図があるはずだと私は感じ始めたので
ある。そして、もし意味があり、意図があるならば、当然誰かがその意味を与え、
誰かがその意図を持っているのにちがいない、その誰かがかならず存在するに
ちがいないと考え出したのだ。この世界には、芸術作品と同じように、その背後に
誰かの人格が存在している。その人格が何を意味し、何を意図しているとしても、
非常に烈しく意味し、意図しているにちがいないと私は感じたのである。

 

 

Third, I thought this purpose beautiful in its old design, in spite of its defects, such as
dragons.

第三。私はこの意図が、その古来のパターンそのままで実に美しいと思った。たとえば
怪獣というような欠陥があるとしてもである。

 

 

Fourth, that the proper form of thanks to it is some form of humility and restraint: we
should thank God for beer and Burgundy by not drinking too much of them. We owed,
also, an obedience to whatever made us.

第四。この人格にたいして正しく感謝するには、謙虚と抑制という形式によって感謝
するしかない。ビールやブドウ酒を神に感謝するには、あまり飲みすぎぬように慎むに
如くはない。それにまたわれわれは、何がわれわれを創ったにしても、その創り主に
たいして従順であらねばならぬ。それは創られたものの当然の義務というものだ。

 

 

At last, and strangest, there had come into my mind a vague and vast impression that in
some way all good was a remnant to be stored and held sacred out of some primordial
ruin. Man had saved his good as Crusoe saved his goods: he had saved them from
a wreck.

さて最後に、これがいちばん奇妙な点だが、私の心に忍びこんだ漠然としてしかも広漠
たる印象があったのだ。この世にあるあらゆる善は、何か原初の破滅から救い出され、
聖なるものとして伝えられてきた遺品ではあるまいかという印象だった。クルーソー
便なるものを難破船から救い出したように、人間は善なるものを救い出したのである。

 

 

All this I felt and the age gave me no encouragement to feel it. And all this time I had not
even thought of Christian theology.

私はすべてこういうことを感じたのだ。けれども時代はそういう感じを少しも助けては
くれなかった。そしてその間じゅう、私はキリスト教神学のことなど露ほども思って
みたことはなかったのである。

 

  

Orthodoxy by G. K. Chesterton

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「チェスタトン:正統とは何か」。その2。科学の発達により私たちが忘れてしまったもの、そして宗教に引きつけられる理由とは? “Chesterton: Orthodoxy” No.2――What have we forgotten along with the development of science and why are we attracted to religion?

 

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科学は確かに世界を豊かにしました。しかし、科学知識さえあれば、人間は生きて
いけるのか?不安なく、幸せに暮らせるのか?チェスタトンは、我々の生の根本的な
エネルギー源としての「驚異の感情」に言及します。それは、おとぎ話で語られる
「魔法」や「不思議」につながるもの。人がキリスト教などの宗教に引き付けられる
原因も、この「驚異の感情」にある――詳しくは、バイリンカルで、どうぞ。

Science has surely enriched the world. However, can we human live only by scientific
knowledge and lead a happy life without any anxiety? G・K・Chesterton mentions
“wonder” as the source of energy for our lives, which is connected with “magic” or
“mystery” narrated in fairy tales. This “wonder” is the cause that we are attracted to
religions such as Christianity――more to come both in English and in Japanese.

 

 

 

This elementary wonder, however, is not a mere fancy derived from the fairy tales; on the
contrary, all the fire of fairy tales is derived from this. Just as we all like love tales because
there is an instinct of sex, we all like astonishing tales because they touch the nerve of
the ancient instinct of astonishment.

けれども、何物にも先立つこの根本的な驚異の感情は、けっして単におとぎ話に由来
する空想というものではない。むしろまったく逆に、おとぎ話のエネルギーは人間の
本性に由来しているのである。われわれがみな恋の物語を好むのは性の本能がある
からだ。それと同じで、われわれがみな驚異の物語を好むのは、太古以来人間にひそむ
驚異の本能を刺激されるからなのだ。

 

 

We have all read in scientific books, and, indeed, in all romances, the story of the man
who has forgotten his name. This man walks about the streets and can see and
appreciate everything; only he cannot remember who he is.

どんな科学の本にも出てくるが――そしてどんなロマンスにも出てくることだが――
自分の名前を忘れてしまった男の話がある。この男、往来を歩きまわり、あらゆるもの
に目をとめて、そしてあらゆるものに感嘆し、驚異する。ただ自分が誰であるかが
思い出せないだけである。

 

 

Well, every man is that man in the story. Every man has forgotten who he is. One may
understand the cosmos, but never the ego; the self is more distant than any star. Thou
shall love the Lord thy God; but thou shalt not know thyself. We are all under the same
mental calamity; we have all forgotten our names. We have all forgotten what we really
are.

実はわれわれは、みなこの男と同んなじことなのだ。みんな自分が誰だか忘れて
しまっている。宇宙は理解できても、自己を知ることはできない。自己はどんな星より
もさらに遠い。汝は汝の神たる主を愛すべし、ただ汝自身を知るべからず。われわれは
みな同じ精神の厄災にとらわれている。みな自分の名を忘れているのだ。自分が本当は
誰であり何者なのか、われわれはみな忘れ去っているのである。

 

 

All that we call common sense and rationality and practicality and positivism only means
that for certain dead levels of our life we forget that we have forgotten. All that we call
spirit and art and ecstasy only means that for one awful instant we remember that we
forget.

常識と言い、理性と言い、現実と言い、実証と言う。けれどもそれが意味するのは
ただ、われわれの生命のある深い層においてわれわれが死んでおり、われわれが忘れた
ということさえ忘れているということにすぎぬ。精神と言い、芸術と言い、恍惚と
言う。それが意味するところはただ、ある恐るべき一瞬において、われわれは忘れて
いたということを思い知るということにつきるのだ。

 

 

Orthodoxy by G. K. Chesterton

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「チェスタトン:正統とは何か」。その1。キリスト教はなぜ、西欧文明のエネルギー源となり世界を席巻できたのか? “Chesterton: Orthodoxy” No.1――Why could Christianity become the source of energy for Western Civilization which has prevailed on earth?

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五木寛之の「神の発見」に曰く、かつて日本では『和魂洋才』が叫ばれたが、洋才には
『洋魂』とでも呼ぶべき精神のありようがあって、それはキリスト教文化である。明治
以来、私たち日本人は『和魂洋才』の名のもとに無理やり近代化をおしすすめてきた
が、敗戦によって和魂が否定されると、こんどは「無魂洋才」になってしまった、
と言うのです。今回より、このブログで『洋魂』=『キリスト教文化』が、いかにして
西洋人の心の支えとなり、これまでのその旺盛な活動のエネルギー源となりえたか、
その真髄に迫ってみたいと思います。そのテキストとして、G・K・チェスタトンの不朽
の名著「正統とは何か」を取り上げます――バイリンガルで、どうぞ。

Hiroyuki Itsuki says in his book “Discovery of God” that once in Japan “Japanese soul with
Western learning” was advocated, however, Western learning should get along with the
state of spirit which should be called “Western spirit,” that is Christian culture. Since the
Meiji Restoration we Japanese has been forced to become modernized in the name of
“Japanese spirit with Western learning.” But our defeat in the World WarⅡ made
“Japanese spirit” denied and then we are bound to go with “No spirit with Western
learning,” according to Itsuki. From this weblog, I try to get closer to the essence of
“Western spirit: Christian culture” which has supported Westerner’s mind and how it has
been able to become the source of energy for their vigorous activities so far. The text is
from “Orthodoxy,” the timeless masterpiece written by G・K・Chesterton――more to
come both in English and in Japanese.

 

 

 

These essays are concerned only to discuss the actual fact that the central Christian
theology is the best root of energy and sound ethics.

本書で問題とするところは、厳然たる事実として、キリスト教信仰の核心が。現実生活
のエネルギー源として、また健全な道徳の根源として、最善最上のものだという点を
示すこと以外にはない。

 

 

What in actual human history keeps man sane? Mysticism keeps men sane. As long as
you have mystery you have health; when you destroy mystery you create morbidity. The
ordinary man has always been sane because the ordinary man has always been a mystic.

現実の人間の歴史を通じて、人間を正気に保ってきたものは何であるのか。神秘主義
なのである。心に神秘を持っているかぎり、人間は健康であることができる。神秘を
破壊する時、すなわち狂気が創られる。平常平凡な人間がいつでも正気であったのは、
平常平凡な人間がいつでも神秘家であったためである。

 

 

The whole secret of mysticism is this: that man can understand everything by the help of
what he does not understand. The morbid logician seeks to make everything lucid, and
succeeds in making everything mysterious. The mystic allows one thing to be mysterious,
and everything else becomes lucid.

神秘主義の偉力の秘密は結局こういうことである。つまり、人間は、理解しえないもの
の力を借りることで、はじめてあらゆるものを理解することができるのだ。狂気の
論理家はあらゆるものを明快にしようとして、かえってあらゆるものを神秘不可解に
してしまう。神秘家はただ一つのことを神秘不可思議と認めることによって、実は
そのほかのあらゆるものが明快きわまりないものとなる。

 

 

The Christian puts the seed of dogma in a central darkness; but it branches forth in all
directions with abounding natural health.

キリスト教徒は、宇宙の中心の神秘の闇のうちにドグマの種子を置く。だがその種子
からは、あふれるばかり自然の生気に満ち満ちた枝々が、あらゆる方向に向かって
力強く伸び広がるのだ。

 

 

Buddhism is centripetal, but Christianity is centrifugal: it breaks out. For the circle is
perfect and infinite in its nature; but it is fixed for ever in its size; it can never be larger or
smaller.

仏教は求心的だが、キリスト教は遠心的である。それは輪を突き破って四方にあふれ
出る。円環は、その本来の性格として、完璧であり無限であるが、永遠にその大きさが
決まっている。大きくなることも小さくなることもできぬ。

 

 

But the cross, though it has at its heart a collision and a contradiction, can extend its four
arms for ever without altering its shape. Because it has a paradox in its center it can grow
without changing. The circle returns upon itself and is bound. The cross opens its arms to
the four winds; it is a signpost for free travellers.

 

ところが十字架は、その中心には衝突と矛盾を持ちながら、四つの腕をどこまでも、
しかも全体の形を変えぬままに遠く、遠く伸ばしてゆくことができるのだ。中心に逆説
を持てばこそ、それは形を変えずに成長してゆくことができるのだ。円環は永劫に自己
に回帰し、閉じられている。十字架は四つの方位に腕を広げ、腕を伸ばす。それは自由
の旅人の道標なのだ。

 

 

 

Orthodoxy by G. K. Chesterton

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「ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門」。その29。ヴィパッサナー瞑想法の出典元を、ティク・ナット・ハンの翻訳・解説で読もう。”The Art of Living: Vipassana Meditation” No.29――Let’s read the source of Vipassana Meditation, through translation and commentaries by Thich Nhat Hanh.

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ヴィパッサナー瞑想法の出典元「サティパッタナー・スッタ(大念処経)」を、その
わかりやすい著作の数々で、世界中に仏教を広めた、ティク・ナット・ハンの
翻訳&解説で読むことができます――興味のある方は、どうぞ。

You can read “Satipațțhāna Sutta,” the source of Vipassana Meditation, through
translation and commentaries by Thich Nhat Hanh who has contributed to spreading
Buddhism around the world with his easy-to-understand books ――if you are interested
in it.

  

Transformation And Healing: The Sutra on the Four Establishments of Mindfulness

Transformation And Healing: The Sutra on the Four Establishments of Mindfulness

  • 作者:Hanh, Thich Nhat
  • 発売日: 1993/08/05
  • メディア: ペーパーバック
 

 

 

ブッダの〈気づき〉の瞑想

ブッダの〈気づき〉の瞑想

 

 

The Art of Living: Vipassana Meditation

The Art of Living: Vipassana Meditation

  • 作者:WILLIAM HART
  • 発売日: 2008/11/30
  • メディア: ペーパーバック
 

 

 

 

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「ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門」。その28。ブッダが考えた「真の幸福」とは何か? The Art of Living: Vipassana Meditation” No.28――What did the Buddha think is ”real happiness” ?

 

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結局、私たちは何のために、瞑想を、ダンマを修行しているのか? ブッダからの究極の
答えが、ここにある――解説を、バイリンガルで、どうぞ。

After all, for what do we practice meditation; Dhamma? Here we have the ultimate
answer from the Buddha ――more to come both in English and in Japanese.

 

 

 

Once the Buddha was asked to explain real happiness. He enumerated various
wholesome actions which are productive of happiness, which are real blessings. All these
blessings fall into two categories: performing actions that contribute to the welfare of
others by fulfilling responsibilities to family and society, and performing actions that
cleanse the mind. One’s own good is inextricable from the good of others. And at the last
he said,

あるとき、ブッダは真の幸福について教えを請われたことがある。ブッダは、幸福を
招き、真の恩恵を得る行為の例をいろいろあげた。幸福をもたらす行為は大きく分けて
二つある。一つは、家族や社会に対する責任を果たし、人々の福祉に貢献する行為
である。もう一つは、心を浄化する行為である。自分の幸せは、他人の幸せで
間に合わせるわけにはいかない。そこで、ブッダは最後にこう言っている。

 

 

When faced with all the ups and downs of life,

still the mind remains unshaken,

not lamenting, not generating defilements, always feeling

 secure;

this is the greatest happiness.

人生の浮き沈みに直面しても、

心が動揺することなく、

嘆くことも、悪意を抱くこともなく、いつもやすらいでいる。

これが最大の幸福である。

 

 

No matter what arises, whether within the microcosm of one’s own mind and body or in
the world, one is able to face it――not with tension, with barely suppressed craving and
aversion――but with complete ease, with a smile that comes from the depths of the
mind.

心とからだという小宇宙のなかであれ、外の世界であれ、どのようなことが起きても
正面から対処することができる。緊張することなく、むりに渇望と嫌悪をおさえること
なく、じつにおだやかで、心の底からほほえみを浮かべ、問題に立ち向かう。

 

 

In every situation, pleasant or unpleasant, wanted or unwanted, one has no anxiety, one
feels totally secure, secure in the understanding of impermanence. This is the greatest
blessing.

楽しいとき、楽しくないとき、思いどおりになるとき、思いどおりにならないとき、
どのような状況においても、まったく不安がなく、落ち着いている。すべては無常
であるとさとり、なにひとつ心配することがない。これが最大の幸福である。

 

 

Knowing that you are your own master, that nothing can over-power you, that you can
accept smilingly whatever life has to offer――this is perfect balance of the mind, this is
true liberation.

自分が自分の主人であり、なにものも自分を打ち負かすことはできない。生きてゆく
上でなにが起ころうと、ほほえんでそれを受け入れることができる。このことを
さとれば、心は完全にバランスを保ち、ほんとうに自由になる。

 

 

This is what can be attained here and now through the practice of Vipassana meditation.
This real equanimity is not merely negative or passive aloofness. It is not the blind
acquiescence or apathy of one who seeks escape from the problem of life, who tries to
hide his head in the sand. Rather, true mental balance is based on full awareness of
problems, awareness of all levels of reality.

ヴィパッサナー瞑想法の修行によって、いまここで、それが可能になる。この心の
平静さはほんものである。ただなにもしないでいるとか、遠くから自分をながめる
ということではない。人生の諸問題から逃げ、現実を回避し、ただおとなしく生きて
ゆくとか、無関心をきめこむことでもない。ほんとうの心のバランスというのは、
むしろ、すべての問題に気づいていること、あらゆるレベルの現実に気づいている
こと、その上に成立するのである。

 

 

The absence of craving or aversion does not imply an attitude of callous indifference, in
which one enjoys one’s own liberation but gives no thought to the suffering of others,
On the contrary, real equanimity is properly called “holy indifference.” It is a dynamic
quality, an expression of purity of mind. When freed of the habit of blind reaction, the
mind for the first time can take positive action which is creative, productive, and
beneficial for oneself and for all others.

渇望しない嫌悪しないといっても、ただ無関心になるのとはちがう。自分だけが解脱を
楽しみ、他人の苦しみを考えないというのではない。真の心の平静さというのは、
「とらわれのない清らかな心」とでも呼ぶべきものである。それはきわめて動的なもの
で、純粋な心がそのままあらわれる、といってよい。その場しのぎの反応ぐせから心が
解放されたとき、はじめて前向きな行動をとることができるのである。その行動は
創造的であり、生産的であり、自分のために、そして他のすべての人のためになる。

 

 

Along with equanimity will arise the other qualities of a pure mind: good will, love that
seeks the benefit of others without expecting anything in return; compassion for others
in their failings and sufferings; sympathetic joy in their success and good fortune. These
four qualities are the inevitable outcome of the practice of Vipassana.

心が平静になるにつれて純粋な心のさまざまな特性があらわれる。人々のためを思い、
いっさいの見返りを期待しない善意、そして愛。人生につまずき、苦しんでいる人々
へのあたたかい思いやり。成功や幸運にめぐまれた人々を祝福するすなおな喜び。
ヴィパッサナー瞑想法を修行すると、これら四つの思いが自然に湧き出てくる。

 

 

The Buddha said that in cleansing the mind and attaining “wisdom brought to full
perfection,” one experiences “joy, bliss, tranquility, awareness, full understanding, real
happiness.” With a balanced mind we can enjoy life more. When a pleasant situation
occurs, we can savor it completely, having full and undistracted awareness of the present
moment. But when the experience passes, we do not become distressed. We continue to
smile, understanding that it was bound to change.

ブッダは、心を浄化して「完全無欠の知恵」を獲得した者は、「歓喜、至福、静寂、
気づき、完全理解、真の幸福」を体験する、と言っている。心のバランスがとれて動揺
しなくなれば、人生ははるかに楽しいものになる。楽しいことが起こったとき、
その瞬間すべてに気づき、意識が集中していれば、その楽しさをあますところなく
味わうことができる。楽しいことが過ぎ去っても落ち込まない。そういう状況が変化
することをさとっているから、ほほえんでいられる。

 

 

Equally, when an unpleasant situation occurs, we do not become upset. Instead we
understand it and by doing so perhaps we find a way to alter it. If that is not within our
power, then we still remain peaceful, knowing full well that this experience is
impermanent, bound to pass away. In this way, by keeping the mind free of tension, we
can have a more enjoyable and productive life.

また、不快なことが起こっても動揺しない。その不快な状況をきちんと把握し、それを
好転させる手段を見つけるだろう。自分の力ではどうにもならないようなときでさえ、
心はやすらいでいる。それとて一時的なもので、かならず変化する。そうさとっている
からだ。このようにして心に緊張をつくらなければ、人生はもっと楽しく、もっと
豊かなものになるだろう。

 

 

The Art of Living: Vipassana Meditation

The Art of Living: Vipassana Meditation

  • 作者:WILLIAM HART
  • 発売日: 2008/11/30
  • メディア: ペーパーバック
 

 

 

 

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