しあわせになる英語 English for Happiness

仏教、哲学、心理学をバイリンガルで学ぶ。

「お金があれば幸せになれるのか」。その2。自分の人生に意味を与えることができた時、幸福への扉が開ける。 “Frederic Lenoir: Happiness a Philosopher’s Guide” No.2――The door to happiness will open when you are able to give meaning to your life..

あなたは、自分の人生に意味を与えることができていますか? それは、幸福への第一歩
だと言います。――バイリンガルで、どうぞ。

Have you been able to give meaning to your own life?  It is said that that is
the first step to happiness――more to come both in English and in Japanese.

 

 

 

Being happy means learning to choose――to choose not only appropriate pleasures,
but also our path, our profession, our way of living and loving, as well as our leisure
activities, our friends and the values on which we build our lives.

幸せであるとは、正しい選択ができるということだ。自分に合った楽しみ方
だけでなく、自分の進むべき道や自分に向いた仕事、自分らしい生き方や愛し方、自分
にとって良い友だち、余暇の過ごし方、そして生きる拠り所となる価値観、それらを
適切に選べるということである。

 

 

Living well means learning to respond to all the demands made of us, to put our
priorities in order. The exercise of reason enables us to give a coherent shape
to our lives in accordance with the values and goals we pursue.

あらゆる誘いにむやみに応じるのではなく、やりたいことに優先順位をつけられる
こと、つまりは自分にとって良いものを選ぶ力が身についていること、それが「よく
生きる」ということである。しかしそれには、理性を働かせることが不可欠である。
そうでなければ、自分が追求する価値や目的に合致した、一貫性のある人生を送ること
は難しいだろう。

 

 

We choose to satisfy a particular pleasure or renounce another one because
we give a meaning [un sens] to our lives――in both senses of the term: we give
our lives both a direction and a significance.

私たちがある欲求を満たし、他の欲求は断念するという選択ができるのは、理性がある
からであり、その力を使って、自分の人生にサンス、すなわち意味と方向を与えること
ができるからである。

 

 

The meaning I am talking about here is not any ultimate, metaphysical meaning.
I don’t think that it’s possible to talk about the “meaning of life” in any universal way,
valid for everyone. Usually, the quest for meaning finds expression in a commitment
to action, and in one’s personal relationships. The building up of a professional career,
for example, demands that we identify an activity that suits us and in which we can
flourish, and that we settle on a goal and objectives to be achieved.

ここでいう「意味」とは、哲学でいう人生の究極的意味ではなく、個々人にとっての
「生きる意味」のことである。だからそれは、万人に通用する一般論では語れないもの
だと思う。そしてこの生きる意味の追求は、ほとんどの場合、活動への取り組みとか
人間関係の構築といった具体的な形で現われてくる。たとえば、キャリアを築くことに
生きる意味を求める人は、その道を歩み始める前に、まず自分の個性を生かせる仕事や
活動を見つけ、次に達成したい目標を定めるだろう。

 

 

The same is true of our personal relationships: if we decide to have a family and raise
children, we organize our lives in accordance with this decision, and our family life
gives meaning to our existence. Other people give meaning to their lives by helping
those around them, fighting to overcome injustice, or devoting time to those
who are underprivileged or suffering.

男女関係においても同じである。家庭を築いて子育てをしようと決めたら、私たちは
この決定に従って人生設計を立てる。この場合、幸せな家庭生活が人生に意味を
もたらす。あるいは隣人を助けることや、世の中の不正をなくすために闘うことに、
さらに恵まれない人々、苦しんでいる人々のために自分の時間を捧げることに、生きる
意味を見出す人たちもいる。

 

 

The contents of “meaning” can vary from one individual to the next, but be that
as it may, we all come to realize that it is necessary――if we wish to build up our
lives――to guide them, give them a direction and a goal, and endow them with
meaning.

このように、自分の人生に与える「意味」の内容は、人によって大きく異なる可能性が
ある。しかし、その内容がどうであれ、自分らしい人生を築くためには、まず進むべき
道を見つけ、目指すべき目的と方向性を定め、そしてそこに意味を与えることが不可欠
であり、そのことは誰もが認めざるをえないだろう。

 

 

Whether or not we achieve our goals, in fact, is not the essential matter. We aren’t
going to wait until we’ve reached all our objectives before we start being happy.
The path matters more than the goal: happiness comes as we make our journey.
But the journey makes us happier the more pleasure we take in making progress,
the more clearly the destination towards which we are moving is identified (even
if we have to change tack on our journey), and the more it meets the deepest
aspirations of our being.

もとより、目指している目的地に到達できるかどうかは、さほど重要ではない。定めた
目標をすべて達成するまで、幸せになれないわけでも、幸せになってはいけないわけ
でもない。どこへ行くかではなく、どのようにして行くかが問題なのだ。目標に
向かって歩みつづけているうちに、幸せは向こうからやって来る。しかしその過程で、
少しずつでも前進することに喜びを感じられるなら、また自分の目指すべきものが
はっきり見えているなら――途中でそれを変えることになったとしても――、そして
それが心の底からの願いに合致しているなら、人生という旅により大きな幸せを
見出せるだろう。

 

 

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「お金があれば幸せになれるのか」。その1。幸福とは、自分の人生を愛せるということ。 “Frederic Lenoir: Happiness a Philosopher’s Guide” No.1――Loving the life you lead.

古代の哲学者たちが考えた「幸福の法則」をヒントにすることで、幸福についての理解
が深まる。まずは、幸せになるためには、自分の幸福の自覚が不可欠。――
バイリンガルで、どうぞ。

Through “The Law of Happiness” on which ancient philosophers had reflection,
we could deeply understand happiness. First, it is essential to be aware of
our happiness
to be happy――more to come both in English and in Japanese.

 

 

 

I would add that it is essential to be aware of our happiness to be happy.
We can reply that we are “satisfied with our lives overall” only if we have reflected on
our own existence. Animals may indeed have a sense of well-being, but are they aware
of their luck in feeling well? Happiness is a human feeling linked to self-awareness.
In order to be happy, we need to be aware of our well-being, of the privilege or gift
represented by the good time in life.

ここで付け加えておきたいのが、幸せであるためには、自分の幸福の自覚が不可欠
であるということである。自分の人生を顧みたり、見直したりしなければ、「総合的に
見て人生に満足している」という回答はできないだろう。動物たちは、たとえ満足感を
覚えていたとしても、満ち足りているという幸運を自覚しているとは思えない。幸福
は、自己意識と結びついた人間固有の感情なのだ。幸福を感じるために必要なのは、
自分の充足感に気づくこと、人生の甘美なるひとときに感じられる、幸運や恵みを自覚
することである。

 

 

But psychological studies have shown that we are more aware of the negative than of
the positive events that happen to us. The negative events mark us more deeply,
and we remember them better. This fact is probably linked to a principle of
evolutionary psychology; in order for us to survive, it is more important to detect and
remember a danger, so as to find the solution to ward it off, than it is to remember
an agreeable event.

ところが、心理学の研究調査で証明されているように、私たちは自分の身に起こる
ポジティブな出来事より、ネガティブなことのほうがより強く心に刻まれ、人々の記憶
に長く残るものなのだ。その事実はおそらく、進化心理学 (人間の心的活動の基盤は、
生物学的進化の過程で形成されたとする心理学の一分野) の行動原理と関係がある
だろう。それによると、生物が生き残るためには、危険を察知してそれを記憶し、身を
守るための対策を見つけ出すことが急務で、楽しい出来事より重要なことだから
である。

 

 

So we need, as soon as we experience a pleasant, agreeable, joyful moment,
to become aware of that sensation, to take it fully, to cultivate it for as long as
possible. This was emphasized by Montaigne: “Do I find myself in any calm
composedness? Is there any pleasure that tickles me? I do not suffer it to daily
with my senses only; I associate my soul to it too: not there to engage itself,
but therein to take delight; not there to lose itself, but to be present there; and
I employ it, on its part, to view itself in this prosperous state, to weigh and
appreciate its happiness and to amplify it”

それゆえ、心地よく楽しいひとときを過ごせたなら、その感覚に意識を向け、十分に
味わい、できるだけ長く楽しむことが肝要である。モンテーニュは彼らしい淀みない
口調で、その必要性を力説している。「私は今、安定した穏やかな状態にあるか。私の
中に、心地よい快感はあるか。(そうであれば、) この快感がいたずらに五感を刺激する
のを看過せず、私の魂をそれに参与させよう。それは、快感に身を任せるのではなく、
魂でそれを受け入れるためであり、快感に我を忘れるのではなく、そこに魂を宿らせる
ためである。今度は、魂としての自分が主体となってその快感を活かし、幸運に
恵まれたこの状態に自分自身を反映させよう。そしてそれを吟味し、幸福の大きさを
測り、それをさらに拡大させるのだ」。

 

 

Thus, experience shows that becoming aware of our state of satisfaction contributes
to increasing our happiness. We savor our well-being, and this reinforces within us
the sense of plenitude: we rejoice, we are happy to be happy.

経験した人ならよく知っているように、満ち足りた自分の状態を自覚することが、
幸福感の増大につながる。私たちの中にある満ち足りた気持ちは、充足感を味わうこと
でさらに強まり、それによって、自分が幸せだということに、喜びと幸せを感じられる
ようになるのだ。

 

 

To summarize, I’d say that the psychological or sociological definition of happiness
relates to this simple question: Do we love the lives we are leading? And this is
the way the question is most often formulated in surveys of individuals’ “subjective
well-being”: “On the whole, are you very satisfied, quite satisfied, not very satisfied,
or not at all satisfied with the life you are leading?” This assessment can of course
vary over time.

以上、心理学的ないし社会学的観点から「幸福とは何か」を述べてきたが、それを端的
に言えば、つまるところ、幸福とは「自分の人生を愛せること」にほかならない。
個々人の「主観的幸福感」に関するアンケートで、「全体的に見て、自分の人生に満足
していますか。あなたはとても満足、やや満足、やや不満、とても不満、のどれに
当てはまりますか」という質問をよく見かけるが、これも結局、「自分の人生を愛せる
か」という一言に尽きるだろう。ただし、この人生評価は当然のことながら、時が経つ
につれて変化していくものである。

 



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「アーチャン・チャー: 手放す生き方」。その5。「死」とは何か? 「私」とは何か? “Achaan Chah: A Still Forest Pool” No.5――What is “death” ? What is “my self”?

幸福になるための「死」と「私」への向き合い方。――バイリンガルで、どうぞ。

How to face “death” and “my self” in order to attain happiness――more to come
both in English and in Japanese.

 

 

 

When one does not understand death, life can be very confusing. If our body really
belonged to us, it would obey our commands. If we say, “Don’t get old,” or
“I forbid you to get sick, “ dose it obey us? No, it takes no notice.

私たちが死というものを正しく理解しないとき、その人生はとても混乱したものに
なります。もし、身体というものが本当に私たちに帰属するものなら、それは私の命令
に従うはずです。もし、私たちが自分の身体に「老いるな」とか「病気になることを
禁ずる」などと命令したところで、身体はそれに従いますか? 従いませんね。身体は、
そんな命令に反応などしません。

 

 

We only rent this house, not own it. If we think it belongs to us, we will suffer
when we have to leave it. But in reality, there is no such things as a permanent self,
nothing solid or unchanging that we can hold on to.

実際のところ、私たちはただこの身体という家を借りているだけであって、所有は
していないのです。もし、身体が私たちの所有物であると考えるなら、死によってこの
身体を手放さなくてはいけないときに、苦しむことになるに違いありません。しかし、
現実には永遠なる自己はありませんし、私たちがそれにしがみつけるような確かな
ものや、不変のものなどありはしません。

 

 

Buddha made a distinction between ultimate truth and conventional truth. The idea
of a self is merely a concept, a convention――American, Thai, teacher, student, all are
conventions. Ultimately no one exists, only earth, fire, water, and air――elements that
have combined temporarily.

ブッダは勝義諦 (しょうぎたい) と世俗諦 (せぞくたい) の間に、明確な区別を
設けました。我 (アッター) という考えは、実際のところ、単なる概念にすぎず、
アメリカ人、タイ人、教師、生徒といったものすべてと同様に、施設 (せせつ) に
すぎません。勝義諦の観点から見れば、誰も存在する者はおらず、ただ地水火風
といった四大 (地水火風) が一時的に結合しているだけです。

 

 

We call the body a person, my self, but ultimately there is no me, there is only anatta,
not-self. To understand not-self, you have to meditate. If you only intellectualize,
your head will explode.

私たちは身体を指して、「人」とか「私」などと呼びますが、勝義諦としては「私」
などというものはなく、ただ無我 (アナッター) であるのみです。無我を理解するため
には、瞑想をする必要があります。もし、あなたが知的な方法で無我を理解しようと
するなら、あなたの頭は破裂してしまうことでしょう。

 

 

Once you understand not-self in your heart, the burden of life will be lifted. Your family
life, your work, everything will be much easier. When you see beyond self, you no longer
cling to happiness, and when you no longer cling to happiness, you can begin to be truly
happy.

一度でもあなたが心から無我を理解したなら、人生の悩みは霧散するでしょう。
そして、あなたの家庭生活、仕事などすべてのことがずっと気楽なものとなります。
あなたが我を超えて物事を見るとき、もはや幸福に執着することはなくなります。
そして、幸福に執着しなくなったとき初めて、あなたは本当の意味で幸福になることが
できるのです。

 

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「アーチャン・チャー: 手放す生き方」。その4。仏教が説く「真の愛」とは何か? “Achaan Chah: A Still Forest Pool” No.4――What is “Real Love” taught by Buddhism?

あなだが考えている「愛」は、「真の愛」ではない?――バイリンガルで、どうぞ。
Is what you think of as “love” not “Real Love”?――more to come both in English
and in Japanese.

 

 

 

Real love is wisdom. What most people think of as love is just an impermanent feeling.
If you have a nice taste every day, you will soon get tired of it. In the same way,
such love eventually turns into hatred and sorrow. Such worldly happiness involves
clinging and is always tied up with suffering, which comes like the policeman
following the thief.

真の愛とは、智慧のことです。ほとんどの人が愛だと考えているものは、一過性の感情
にすぎません。もし、あなたが毎日おいしいものを食べていたとするなら、すぐに
それに飽きてしまうことでしょう。同様に、そのような愛は結局、嫌悪や悲しみに姿を
変えてしまうのです。このような俗世間における幸福は執着を伴い、それゆえ泥棒を
追いかける警官のように、常に苦 (ドゥッカ) と結びついているのです。

 

 

Nevertheless, we cannot suppress nor forbid such feelings. We just should not cling to
or identify with them but should know them for what they are. Then Dharma is present.
One loves another, yet eventually the beloved leaves or dies.

それにもかかわらず、私たちはこうした感情を抑えたり、禁じたりすることが
できません。ですから、私たちはこうした感情に執着したり、自己と同一視すべきでは
なく、それが何であるかをあるがままに知るべきなのです。そのとき、ダルマが顕現
します。人は誰かを好きになるものです。しかし、愛する人とはいつしか別離か、
もしくは死による別れが待っています。

 

 

To lament and think longingly, grasping after that which has changed, is suffering,
not love. When we are at one with this truth and no longer need or desire, wisdom
and the real love that transcends desire fill our world.

そのような変化が訪れた後でも執着し、悲嘆にくれたり、関係を懐かしむことは、
苦 (ドゥッカ) であって、愛とは言えません。私たちがこの真理を理解し、もはや自分の
心に欲望を抱かずにいるとき、欲望を超越した智慧と、真の愛が私たちの世界を満たす
ことでしょう。

 



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「アーチャン・チャー: 手放す生き方」。その3。あなたの人生の苦しみを止める、「正見(ものごとを正しく見ること)」とは? “Achaan Chah: A Still Forest Pool” No.3――What is “Right Understanding” to stop sufferings in your life?

ブッダの重要な教え「八正道」の中でも、苦しみのない人生を送るための指針となる
「正見 (しょうけん)」を、タイの有名僧侶・アーチャン・チャーが解説――
バイリンガルで、どうぞ。

A guideline for living a life without sufferings in an important Buddhist teaching
“Noble Eightfold Path,” called “Right Understanding,” given commentaries by
Achaan Chah, a famous monk in Thailand――more to come both in English and
in Japanese.

 

 

 

Right understanding ultimately means nondiscrimination――seeing all people as
the same, neither good nor bad, neither clever nor foolish; not thinking that
honey is sweet and good and some other food is bitter.

正見 (サンマー・ディッティ) とは、究極的には無分別を意味します。無分別とは、
すべての人を善も悪もなく、賢いか愚かということもなく、平等に観 (かん) じること
です。言い換えるなら、「はちみつは甘くておいしいが、他の食べ物は苦い」など
ということは考えないということです。

 

 

Although you may eat several kinds of food, when you absorb and excrete them,
they all become the same. Is it one or many? Is a glass big? In relation to a little cup,
yes; when placed next to a pitcher, no.

あなたはさまざまな種類の食べ物を食べるかもしれません。けれども、あなたがその
食べ物を消化し、排泄するときには、それらはすべて同じものになります。その場合、
一と多、どちらが正解と言えるでしょうか?  そこにあるグラスは、大きいと
言えますか? 小さなコップと比べた場合、その答えは「はい」ですね。けれども、
水差しと比べた場合、その答えは「いいえ」です。

 

 

Our desire and ignorance, our discrimination color everything in this way. This is
the world we create. Again, a pitcher is neither heavy nor light; we just feel that
it is one way or the other.

私たちの貪 (ローバ) と痴 (モーハ)、すべてのものを分別する際の色眼鏡は、こうして
生まれます。これが、私たちがつくり出した世界です。先ほどの例で言うと、水差しは
重くも軽くもありません。その区別は、私たちの見方によって生ずるものです。

 

 

Why is sugar sweet and water tasteless? It is just their nature. So too with thinking
and stillness, pain and pleasure――it is wrong understanding to want thinking
to cease. Sometimes there is thought, sometimes stillness. We must see that both are
by nature impermanent, unsatisfactory, not a cause for lasting happiness. But
if we continue to worry and think further, “I am suffering, I want to stop thinking,”
this wrong understanding only complicates things.

なぜ、砂糖は甘く、水は無味なのでしょうか? それは、それが砂糖や水の性質だから
です。そのことは、思考や静寂、楽 (スカ) や苦 (ドゥッカ) に対しても同じことが
言えます。ですから、思考を静めようとすることは間違った考えです。あるときには
思考があり、あるときには静寂があるのです。私たちはそれらの双方が
無常 (アニッチャ)、苦であり、永遠に続く幸福ではないということを理解しなくては
なりません。しかし、もし私たちが心配を続け、さらに「私は苦しんでいる。思考を
止めたい」と考えるのなら、この間違った理解は、物事をより複雑にするだけです。

 

 

At times, we may feel that thinking is suffering, like a thief robbing us of the present.
What can we do to stop it? In the day, it is light; at night it is dark. Is this itself suffering?

時折、私たちは思考を「今、ここ」の瞬間を盗んでいく泥棒であるかのように考え、
苦であると感じるかもしれません。では、私たちは、どのようにして思考を止めること
ができるのでしょうか?  日中には光があり、夜には闇があります。このこと自体は
苦しみでしょうか?

 

 

Only if we compare the way things are now with other situations we have known
and wish it were otherwise. Ultimately things are just as they are――only
our comparison cause us to suffer.

私たちが物事を比較するときに限り、今生じていることと、あり得たかもしれない他の
場合は分かたれ、他のようであってほしいと願うことが可能になります。しかし、
究極的には、現象とはあるがままのものであり、私たちが物事を比較することだけが
苦しみを引き起こしているのです。

 

 

Still enlightenment dose not mean to become dead like a Buddha statue.
One who is enlightened thinks also but knows the process as impermanent,
unsatisfactory, and empty of self. We who practice must see these things clearly.

悟りの寂静とは、仏像のように死んだようになることを意味しているわけでは
ありません。悟りを開いた人も物を考えることはありますが、無常・苦・
無我 (アナッター) のプロセスをよく理解しています。修行者である私たちは、これらの
ことを明確に理解しなければなりません。

 

 

We need to investigate suffering and stop its causes. If we do not see it, wisdom
can never arise. There should be no guesswork, we must see things exactly
as they are――feelings are just feelings, thoughts are just thoughts. This is
the way to end all our problems.

私たちは苦についてよく理解をし、その原因をやめる必要があります。もし、私たちが
それを観察しないのなら、智慧は決して生ずることはありません。当てずっぽうでは
なしに、感情は感情と、思考は思考と、現象をありのまま正確に理解しなければ
なりません。これこそが、私たちの問題すべてに終止符を打つ道なのです。

 



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「アーチャン・チャー: 手放す生き方」。その2。あなたの人生に、なぜ仏教は必要なのか? “Achaan Chah: A Still Forest Pool” No.2――Why is Buddhism necessary for your life?

ただ学ぶだけでなく、ダルマ(仏教が示す、人間の生きるべき道)を実践して、人生の
問題を解決する方法とは?タイの有名僧侶・アーチャン・チャーによる、仏教への
新しいアプローチ。――バイリンガルで、どうぞ。

What is the way to solve the problems of your life not only through studying
but also through applying Dharma (the way to live that Buddhism shows) in practice?
A new approach to Buddhism by Achaan Chah, a famous monk in Thailand――
more to come both in English and in Japanese.

 

 

 

Let us talk about the difference between studying Dharma ideas and applying them
in practice. True Dharma study has only one purpose――to find a way out of
the unsatisfactoriness of our lives and to achieve happiness and peace for ourselves
and all beings.

「ダルマを学習すること」と「それを実践すること」の違いについてお話し
しましょう。真のダルマの学習には、たった一つの目的しかありません。それは、
私たちの人生における苦 (ドゥッカ) という現実から脱出する方法を見つけ、自分自身
と、生きとし生けるものの、幸福と平安を得ることです。

 

 

Our suffering has causes for its arising and a place to abide. Let us understand
this process. When the heart is still, it is in its normal condition; when the mind
moves, thought is constructed. Happiness and sorrow are part of this movement of
mind, this thought construction.

苦には、それが生じる原因と、持続する場所があります。そのプロセスを理解
しましょう。私たちの心が静寂なとき、それは正常な状態にあります。私たちの心が
動揺するとき、思考が生じます。幸せと悲しみは、この心の動きと、思考によって
つくり出されたものの一部です。

 

 

So also is restlessness, the desire to go here and there. If you do not understand
such movement, you will chase after thought constructions and be at their mercy.

そのために、私たちはあちこちへ行きたいという欲望から生まれる、落ち着きのない
状態にいつもあることになります。こうした心の働きを理解していないならば、私たち
は思考によって形作られたもののなすがままになってしまいます。

 

 

Therefore, the Buddha taught us to contemplate the movement of the mind.
Watching the mind move, we can see its basic characteristics: endless flux,
unsatisfactoriness, and emptiness. You should be aware of and contemplate
these mental phenomena.

そこで、ブッダは私たちに、心の動きを直視することを教えました。心の動きを
観察することによって、終わりのない流れ、苦、空といった、現象の基本的な性質を
知ることができます。これらの現象の基本的な性質に気づき、観察するようにして
ください。

 

 

In this way, you can learn about the process of dependent origination. The Buddha
taught that ignorance is the cause of the arising of all worldly phenomena and
of our volitions. Volition gives rise to consciousness, and consciousness in turn gives
rise to mind and body. This is the process of dependent origination.

そうすることによって、あなたは縁起のプロセスを理解することができるように
なります。ブッダは、無明によって、行 (サンカーラ) が生じると説きました。
行 (サンカーラ) は識を生じさせ、同様に識は名色を生じさせます。これが縁起の
プロセスなのです。

 

 

When we first study Buddhism, these traditional teachings may appear to make sense
to us. But when the process is actually occurring within us, those who have only read
about it cannot follow fast enough. Like a fruit falling from a tree, each link
in the chain falls so fast that such people cannot tell what branches it has passed.
When pleasurable sense contact takes place, for example, they are carried away
by the sensation and are unable to notice how it happened.

私たちが初めて仏教を学ぶとき、これらの伝統的な教えは筋が通っているように見える
ことでしょう。しかし、それについて本で読んだことがあるだけの人は、そのプロセス
が実際に私たちの内に生じるとき、その速さについていけません。木から落ちる果物
のように、縁起の項目の一つひとつはあまりに速く過ぎていくため、それを体験した
人は、どの部分が過ぎたのかを言い表すことができません。例えば、好ましい感覚への
接触が生じたとき、私たちは興奮によって衝 (つ) き動かされ、それがどのように
生じたかに気づくことができないのです。

 

 

Of course, the systematic outline of the process in the texts is accurate, but the
experience is beyond textual study. Study does not tell you that this is
the experience of ignorance arising, this is how volition feels, this is a particular
kind of consciousness, this is the feeling of the different elements of the body
and mind. When you let go of a tree limb and fall to the ground, you do not
go into detail about how many feet and inches you fell; you just hit the ground
and experience the pain. No book can describe that.

もちろん、経典に書かれている縁起のプロセスの系統だった説明は正確なものですが、
体験は経典の学習を超えたものです。経典の学習から、これが無明が生じる体験だ、
これが行を感じるということだ、これが識の特定の性質だ、これが名と色の違った要素
の感覚だ、などということを学ぶことはできません。私たちは木登りをした木から
落ちるとき、地面までの距離が何メートルなのかとは考えないものです。実際には、
ただ地面に叩きつけられ、痛みを経験するだけです。ですが、どんな本にもそのことは
書いていないのです。

 

 

Formal Dharma study is systematic and refined, but really does not follow
a single track. Therefore, we must attest to what arises from the one who knows,
from our deepest wisdom. When our innate wisdom, the one who knows, experiences
the truth of the heart / mind, it will be clear that the mind is not our self.
Not belonging to us, not I, not mine, all of it must be dropped.

伝統的なダルマの学習は体系だっており、洗練されています。しかし、現実は決まった
通りには進みません。それゆえ、私たちは自身の深い智慧から生ずるものを吟味
しなければなりません。私たちの内なる智慧が、心の真の姿を体験するとき、心は
我 (アッター) ではないということがはっきりします。心は私にも、私たちにも、
私のものにも属しません。

 

 

As to our learning the names of all the elements of mind and consciousness,
the Buddha did not want us to become attached to the words. He just wanted us
to see that all this is impermanent, unsatisfactory, and empty of self. He taught only
to let go. When these things arise, be aware of them, know them. Only a mind
that can do this is properly trained.

ブッダは、私たちが心 (チッタ) と心所 (チェータシカ) の名前を学ぶとき、言葉に
とらわれることのないように説きました。ブッダは私たちに、ただこれらすべてが無常
(アニッチャ) 、苦、無我 (アナッター) であることを理解することを望んだのです。
ブッダは、「手放すこと」についてのみ説かれました。現象が生じるとき、それらに
気づき、理解する。それができる心だけが、正しく調御された心なのです。

 

 

When the mind is stirred up, the various mental formations, thought constructions,
and reactions start arising from it, building and proliferating continually.
Just let them be, the good as well as the bad. The Buddha said simply,
“Give them up.” But for us, it is necessary to study our own minds to know
how it is possible to give them up.

心が混乱するとき、さまざまな心所、思考によって生み出されたもの、反応が生じ、
やがてそれは持続的に高まり、増殖していきます。そのときに、良いことも、悪いこと
も、ただあるがままにしてください。ブッダはシンプルに「諦めなさい」と説きます。
しかし私たちにとっては、どのようにしたら諦めることが可能になるかを知るために、
自分自身の心の働きを学ぶことが必要なのです。

 



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「アーチャン・チャー: 手放す生き方」。その1。ブッダの教え「中道」を、驚くほどわかりやすく解説。 “Achaan Chah: A Still Forest Pool” No.1――Surprisingly easy-to-understand commentaries on “the Middle Path” in the Buddhist teachings.

「頭で考えるのでなく、日常生活を通じて実践を行いなさい」と説く、タイの有名
僧侶・アーチャン・チャーによる、仏教への新しいアプローチ。まずは、あなたの生活
を根本から変える教え「中道」から紹介します――バイリンガルで、どうぞ。

A new approach to Buddhism by Achaan Chah, a famous monk in Thailand, who urges
us to work with our practice, not as an ideal, but in our everyday life situations. First,
I’d like to introduce the teaching of “the Middle Path” which will fundamentally
transform your daily life――more to come both in English and in Japanese.

 

 

 

The Buddha does not want us to follow the double path――desire and indulgence
on the one hand and fear and aversion on the other. Just be aware of pleasure, he
teaches. Anger, fear, dissatisfaction are not the path of the yogi but the path of
worldly people. The tranquil person walks the Middle Path pf right practice, leaving
grasping on the left and fear and aversion on the right.

ブッダは、私たちが「欲におぼれる道」と「苦行を行う道」という二つの両極端な道の
どちらを歩むことも、よしとしていませんでした。そうではなく、ブッダは私たちに
「ただ快楽に気づきなさい」と説いたのです。怒り、不安、不満は修行者の道では
なく、俗世の人間の道です。心の静まった人は、左脇に執着を捨て、右脇に恐れや嫌悪
を捨て、正しい実践の道である中道を歩むのです。

 

 

One who undertakes the path of practice must follow this Middle Way: “I will not take
interest in pleasure or pain. I will lay them down." But, of course, it is hard at first.
It is as though we are being kicked on both sides. Like a cowbell or a pendulum,
we are kicked back and forth.

実践の道を歩む人は、中道に従わなければなりません。それは、「私は、快楽にも苦痛
にも興味を持ちません。私は、それらを捨て去ります」ということです。もちろん、
それは最初は難しいことです。言うならば、それはあたかも道の両側から蹴り飛ば
されるようなものです。あなたは、牛の首につける鈴や振り子のように、左右に振れて
しまうかもしれません。

 

 

When Buddha preached his first sermon, he discoursed on these extremes because
this is where attachment lies. The desire for happiness kicks from one side;
suffering and dissatisfaction kick from the other. These two are always besieging us.
But when you walk the Middle Path, you put them both down.

ブッダ初転法輪を説いたとき、これら二つの極端さについて語られました。
なぜなら、ここに私たちの執着の源があるからです。幸福への欲望が片方から
蹴り飛ばし、苦しみや不満がもう一方から蹴り飛ばす。この二つは、いつも私たちを
取り囲んでいるものです。ですが、私たちが中道を歩むとき、あなたはそれらの両方を
捨て去るのです。

 

 

Don’t you see? If you follow these extremes, you will simply strike out when you are
angry and grab for what attracts you, without the slightest patience or forbearance.
How long can you go on being trapped in this way? Consider it: if you like something,
you follow after it when liking arises, yet it is just drawing you on to seek suffering.
This mind of desire is really clever. Where will it lead you next?

分かりませんか? もし、この両極端の道を歩むのなら、あなたはわずかな忍耐も自制心
もなく、怒ったときは喧嘩をし、魅力を感じたものがあればそれをつかみ取ること
でしょう。皆さんが、どれほどこうした生き方に慣れ親しんでいるのか、考えてみて
ください。もしあなたが何かを好きになったら、好きと思った瞬間に、それを追い
求めるでしょう。しかしそれは、あなたを苦しみへと導くのです。欲望というものは、
本当に狡猾 (こうかつ) です。この欲望という心は、次にあなたをどこへ
誘うのでしょうか?

 

 

The Buddha teaches us to keep laying down the extremes. This is the path of right
practice, the path leading out of birth and becoming. On this path, there is neither
pleasure nor pain, neither good nor evil. Alas, the mass of humans filled with desiring
just strive for pleasure and always bypass the middle, missing the Path of
the Excellent One, the path of the seeker of truth.

ブッダは、私たちにその極端さを捨てることを説きます。これこそが正しい実践の道
であり、生死から脱する道なのです。この道には、快楽も苦痛も、善も悪も
ありません。ああ、なんと多くの人々が快楽を得るための望みでいっぱいになり、
いつも中道を避け、悟りへの道、真実を探求する者の道を見失っていること
でしょうか。

 

 

Attached to birth and becoming, happiness and suffering, good and evil, the one
who does not travel the Middle Path cannot become a wise man, cannot find
liberation. Our Path is straight, the path of tranquility and pure awareness,
calmed of both elation and sorrow. If your heart is like this, you can stop asking
other people for guidance.

生と死、幸福と苦しみ、善と悪とに執着し、中道を歩まないものは賢者にはなれず、
解脱を得ることはできません。サマタ (静寂) と純粋な気づきという私たちの実践は
まっすぐなものであり、高揚と悲しみの双方を落ち着かせてくれるものです。もし、
自分の心がそのようになっているのであれば、あなたはもはや、他人に教えを請うこと
はなくなるのです。

 

 

You will see that when the heart / mind is unattached, it is abiding in its normal state.
When it stirs from the normal because of various thoughts and feelings, the process
of thought construction takes place, in which illusions are created. Learn to see
through this process. When the mind has stirred from normal, it leads away from
right practice to one of the extremes of indulgence or aversion, thereby creating
more illusion, more thought construction. Good or bad only arises in your mind.
If you keep a watch on your mind, studying this one topic your whole life,
I guarantee that you will never be bored.

あなたの心から執着がなくなったとき、それが自然な状態にとどまっているということ
が分かるでしょう。私たちが、さまざまな思念や感覚によってその自然な状態から
離れるとき、思考の構築作用が発生し、幻想がつくり出されます。このプロセスを
見抜くことを学んでください。良いことも悪いことも、あなたの心の中にのみ生じるの
です。もし、あなたが人生を通じ自分の心の観察を実践し続けるのなら、必ずや退屈
などしないであろうことを保証します。

 

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