しあわせになる英語 English for Happiness

日曜更新。人生に役立つバイリンガルの学び。

「チェスタトン:正統とは何か」。その4。世界を席巻した、キリスト教の「激しさ」は、どこから来るのか? “Chesterton: Orthodoxy” No.4――Where dose the “intensity” of Christianity, which has prevailed on earth, come from?

 

f:id:englishforhappiness:20200801102725p:plain

なぜキリスト教は、今まで人々をエネルギッシュに活動させ、世界最大の宗教と
なりえたのか?その秘密は、キリスト教独自だと言う「逆説」にある――解説を、
バイリンカルで、どうぞ。

Why has Christianity been able to make people energetically act so far and become the
largest religion in the world? The secret lies in the “paradox,” which is said to be peculiar
to Christianity――more to come both in English and in Japanese.

 

 

 

We want not an amalgam or compromise, but both things at the top of their energy; love
and wrath both burning. Here I shall only trace it in relation to ethics.

つまり、われわれが求めるのは、愛と怒りの中和や妥協ではなく、二つながらその力の
最強度において、二つながら燃えさかる愛と怒りとを得たいということである。
ここではただ、倫理の問題だけに即してこの観念をたどるにとどめる。

 

 

But I need not remind the reader that the idea of this combination is indeed central in
orthodox theology.

けれども、今さら読者の注意をうながすまでもあるまいが、この二つのものを
二つながらその最強度において結びつけるという観念は、実は正統神学においてまさに
中心的な命題にほかならぬ。

 

 

For orthodox theology has specially insisted that Christ was not a being apart from God
and man, like an elf, nor yet a being half human and half not, like a centaur, but both
things at once and both things thoroughly, very man and very God.

なぜといって、正統神学が特に力を込めて強調してやまぬところは、キリストが
神からも人からも離れた、いわば妖精のごとき存在ではなく、あるいは半人半馬の
ケンタウロスのごとく、半分人間でありながら半分神であるというのでもなく、
キリストは同時に二つのものであり、また完全に二つのものである存在、まさに人間中
の人間であり、同時にまたまさに神である存在だと考えるからである。

 

 

Paganism declared that virtue was in a balance, Christianity declared it was in a conflict:
the collision of two passions apparently opposite. Of course they were not really
inconsistent; but they were such that it was hard to hold simultaneously.

異教の哲学は、美徳は平衡にあると主張した。キリスト教は、美徳は対立葛藤にあると
主張した。一見相反するように見える二つの熱情の衝突にあると主張した。もちろん、
二つの熱情は本当に対立しているのではない。ただ、同時に二つながら抱くことの
困難な熱情なのである。

 

 

Let us follow for a moment the clue of the martyr and the suicide; and take the case of
courage. No quality has ever so much addled the brain and tangled the definition of
merely rational sages.

今のところ、まず殉教と自殺から引きついで勇気という問題を考えてみることに
しよう。いかなる性質といえども、この勇気という性質ほど、単に理性だけを頼りに
する賢者の頭を混乱させ、定義を紛糾させてきたものはほかにない。

 

 

Courage is almost a contradiction in terms. It means a strong desire to live taking the
form of a readiness to die. “He that will lose his life, the same shall save it,” is not a piece
of mysticism for saints and heroes. It is a piece of everyday advice for sailors or
mountaineers. It might be printed in an Alpine guide or a drill book. This paradox is the
whole principle of courage; even of quite earthly or quite brutal courage.

そもそも勇気なるものは、ほとんど一種の言語矛盾なのである。生きようとする強い
意志を意味するものでありながら、現実にはいつでも死のうとする決意の形を取るから
だ。「自分の命を失おうとする者は命を全うするだろう」というマタイ伝の言葉は、
聖者や英雄のためだけの神秘な言葉ではない。水夫や登山者のためにごく日常的な忠告
にほかならぬ。アルプスの登山ガイドや教練の指導書に印刷してしかるべき言葉
なのだ。この逆説こそ勇気というものの本質を言いつくしている。まったく地上的な、
あるいはまったく野蛮な勇気さえ例外ではない。

 

 

It is true that the historic Church has at once emphasised celibacy and emphasised the
family; has at once (if one may put it so) been fiercely for having children and fiercely for
not having children. It has kept them side by side like two strong colours, red and white,
like the red and white upon the shield of St. George.

歴史上、教会が独身生活の意義と家庭生活の意義を同時に二つながら強調したことは、
世俗主義者の言うとおりたしかに事実にちがいない。(こんな言い方が許されるなら)
子供を持つことを猛然と支持すると同時に、子供を持たぬことをも猛然と支持したので
ある。しかもこの二つを、二つの強烈な色彩を並べて二つながら強調したのだ。
たとえば、聖ジョージの楯に描かれた、あの強烈な赤と強烈な白のように。

 

 

It has always had a healthy hatred of pink. It hates that combination of two colours which
is the feeble expedient of the philosophers. It hates that evolution of black into white
which is tantamount to a dirty gray.

ただ、二つを混ぜてピンクにすることだけは決して我慢しなかった。まさしく健康の
証しである。二つを合わせて一つの曖昧な色にするのは、哲学者の生気のない便法に
しかすぎぬ。キリスト教はこれを憎む。黒が白に進化して、結局きたならしい灰色に
濁ってしまうことをキリスト教は憎むのだ。

 

 

People have fallen into a foolish habit of speaking of orthodoxy as something heavy,
humdrum, and safe. There never was anything so perilous or so exciting as orthodoxy. It
was sanity: and to be sane is more dramatic than to be mad. It was the equilibrium of
a man behind madly rushing horses, seeming to stoop this way and to sway that, yet in
every attitude having the grace of statuary and the accuracy of arithmetic.

正統は何かしら鈍重で、単調で、安全なものだという俗信がある。こういう愚かな言説
に陥ってきた人は少なくない。だが実は、正統ほど危険に満ち、興奮に満ちたものは
ほかにかつてあったためしがない。正統とは正気であった。そして正気であることは、
狂気であることよりもはるかにドラマチックなものである。正統は、いわば荒れ狂って
疾走する馬を御す人の平衡だったのだ。ある時はこちらに、ある時はあちらに、大きく
身をこごめ、大きく身を揺らせているがごとくに見えながら、実はその姿勢は
ことごとく、彫像にも似た優美さと、数学にも似た正確さを失わない。

 

 

Orthodoxy by G. K. Chesterton

Orthodoxy by G. K. Chesterton

  • 作者:Chesterton, G.K.
  • 発売日: 2020/01/14
  • メディア: ペーパーバック
 

 

 

正統とは何か

正統とは何か

 

 

 

神の発見

神の発見

  • 作者:五木 寛之
  • 発売日: 2005/08/01
  • メディア: 単行本
 

 

■プライバシー・ポリシー

当ブログは、Amazon.co.jpを宣伝しリンクすることによってサイトが紹介料を獲得
できる手段を提供することを目的に設定されたアフィリエイト宣伝プログラムである、
Amazonアソシエイト・プログラムの参加者です。このプログラムにおいて、
三者がコンテンツおよび宣伝を提供し、ユーザーからの情報を収集し、訪問者の
ブラウザーにクッキーを設定することがあります。プログラムにおいて情報の
扱いについてはAmazon.co.jpプライバシー規約をご確認ください。

Amazon.co.jp ヘルプ: Amazon.co.jp プライバシー規約